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the one
2012 / 09 / 22 ( Sat )
Find you a team that makes you a player.

I found one.



たった2つの言語しか話せないけれど、もし一つしかなかったとしても、自分の持てる全ての言葉を使って自分を表現したい

どれだけ貴方を大切かを表現したい

目の前にいるその人へ気持ちを 両手いっぱいに広げて表現したい

どうせ分かってもらえないとか 分かってもらう必要もないとか 

片付けてしまうことだけはやめよう


今日貴方に伝えたかったことは全て伝えたと 

貴方が眠りにつくまでに与えられた時間で全て伝えたと

そう思って眠りにつこう

そうやって生きていこう


時間は、思ったほどたくさんは用意されていない

愛する人に愛していると 伝えられる時間も命もすべて制限がある

今日生まれた感情は 明日には違うものになってるだろう

酸化してしまう前に 色が変わってしまう前に 

表現する勇気を持とう

真摯に生きていこう

全ての人に分かってもらえなくてもいい

答えはすぐには出ない


ただ自分で自分の生き方ぐらい 定義しよう。



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12 : 30 : 12 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
New year, same you.
2012 / 01 / 17 ( Tue )
皆様、とっても遅ればせながら明けましておめでとうございます。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。


Wishing everyone a happy & productive new year. May 2012 be full of happiness, smiles ans joy for you and your loved ones. I started drinking champagne at 9am this morning with my big brother & his wife, and my new years resolution is not to do that again.


FBの新年コメントのコピペです。(新年早々無礼ですが記録のため)


宮崎にも帰らず(帰れず)、ほぼ正月らしいことは何一つしなかったと言っても過言ではありませんが年越しの際には東京に家庭を持ついとこの家にお邪魔し、相当ぶりに紅白をリアルタイムで見て、元旦は朝8時に起こされ8時半にはシャンパンを飲み始めました。

自分から求めずとも、こうやって紅白やら年越しそばやら年賀状やらおせちやら、ほんの少しずつだけど自分の身の上にもお正月が自然と舞い降りてくることに「ああ日本にいるんだなあ」って実感しました。


年明け早々Twitterで


皆が皆におめでとうと言い合う必要があるのか、みんな言ってるから自分は言わなくていいんじゃないか、年賀状だってそうなんじゃないか、なんて感じてる私は本当だめなやつなんでしょうな。

今年の抱負だなんてみんな2月にもなれば忘れるんだからいちいち大々的に宣伝する意味が見出せない・・・なんて言ってるから更にひねくれ者と言われ続けるんでしょうな。。

初詣に行ってないなんて、駄目じゃん!って言われますが、皆いつからそんな熱心な仏教徒に?つい数日前クリスマスにクリスチャンばりに大はしゃぎしてめりーくりすますー言い合ってなかった?と思うから、世捨て人さながらと思われるんでしょうな・・・。




・・・といった具合に「~と思う私は愚か者でしょう」構文でダークネスを振りまいていました。

「Twitterもう飽きた」ってだいぶ前から言ってた気がしますが、なんだかんだ言ってしっかり活用しています。

今更ですが、こんなツイートばかりでなくいいこともたまには言ってる時もまれにあると思うのでフォローしてやるかって方はフォローしてくださいね→


年と年の単なる数字的な境目ではあるけれども、自らを振り返ったり目標を掲げたりっていう、普段忘れがちなことをさせてくれるいいきっかけではあるよね、年末や年始って。

私も節目節目で振り返る目的で過去のブログエントリーをちらっと見てみました。昨年2011年の初めのエントリーには、結構いいこと書いていました。アメリカに残って就労ビザを出してもらうことをやめ、日本に帰ることを決意したと。
今後の進路。真摯な気持ち。Happy 2011

2010年のお正月は宮崎や滋賀にいました。青島で撮ったすごく綺麗な写真がどかどかと。
A Happy New Year

2009年の正月は、ミズーリにいました。ふざけた目標ばかり立てていますが恐らく一つも達成した記憶はないです。
新年です

2008年のこの頃は学部の卒業間近で、まだ学生トレーナーとして男子バレー部に一人でつかせてもらっていました。楽しかったなあ、このチーム大好きだった。
Happy New...

2007年の正月は宮崎にいたみたいです。えらい髪型(スパイラルパーマ、金メッシュ)してた頃です。でもこの髪型好きだったー。できることならもう一回ぐらいしたい。
日本満喫中


今のブログ使い初めてからはこれぐらいなのでざっと5年ぶんぐらいかな。

25歳過ぎたくらいから、「あれ、これ書いたのついこないだじゃん・・・」って感覚です。それ以前はさすがに昔って感じがするし若干若いって感じもするけど。

25過ぎるとあっという間って、こういうことなんですかね。


この頃の私が目指していたもの(ATCになること、修士取るころ、ATCとして実務経験積むこと、体操チームをもつこと)は何気にすべて達成しています。

なのになんだろう、その時の自分が今の自分を見て誇らしく思える気が全然しないのは。

それでも私はその頃の自分にはとっても感謝しているし、よく頑張ったねって言ってあげたい。

後悔なんてもちろんないし、過去は誇りに思っている。愛おしいと思う時間がいっぱいある。

けど戻りたいとは思わない。


がむしゃらさは途中で落としてきてしまったかもしれない。

情熱や負けん気も、悲しいけれどどこかで手放してきてしまったかもしれない。

でもその分、自分との一体感は年々増してる気がします。

自分自身との距離感は、小さくなっていっている。自分の心との一体感が確かにある。

そしてそれは今後もちゃんと守っていかなければならないものなんじゃないかなと思います。



05 : 10 : 56 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
a fight for
2011 / 11 / 19 ( Sat )
なんで過去のことばかり語ってるんだろうね?

自分の未来に出てくる登場人物は、自分で選んできたはずだよ。

過去にフェイドアウトして欲しくない人たちを、自分で選び取って大事にしようと四苦八苦してきたはずだよ。

自分のストーリーは自分で書こうともがいてきたはずだよ。

要らない人は自分で蹴落として来たはずだよ。

だから文句はやめようよ。

あなたが自分で決めてきたこと。

血は争えない

これはつまり、血以外のものは選べるということを言っている。

争える。
16 : 03 : 58 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
やっと書けた。
2011 / 10 / 25 ( Tue )



最近めっちゃ気に入ってる曲です。切ないね!!いいよ!なける!
このPVは偽者なんだけど、これが本物だと思って見てたから今となっちゃ本家よりもこっちのほうが感情移入できるっていう。



久しぶりのエントリーが薄っぺらくてごめんなさい

東京(いや神奈川ですけど)にとっくの昔に戻ってきてます(8月末)。

宮崎ではたくさんの友達と飲んだり、飲んだり、そして飲んだくれたりしてとてもいい時間を持てました

結構最近は地元に戻ってきてる友達も増えていて、ごくごく自然にどちらからともなく誘ってくれてほんとにうれしかったです。


8年もの間日本を離れていて、その間くる日もくる日も同じ場所で同じ時間をただただ刻み続けた世界が宮崎にはあります。

そんなところへ足を踏み入れ、つかみどころない何かに包まれるのはともすれば億劫な作業でもあります。


自分自身も含め、世界は、人々は、変わってしまったんだと思うことのほうが

実は何も変わらないところへ回帰してそこにある人や風景の不変さを思い知らされるよりも

ずっと楽なのかもしれません。


私が遠い国で一日一日をやり過ごすのに精一杯だった年月の間にも

怖いくらいに何一変わらない世界が、一日も一時間も欠かさず同じ時を刻み続けた世界がそこにずっとあった。

その事実は、否応がなしに私に何かを突き付けます。

どこか、責められているような。

ずっと昔に返しそびれた本を、どこへやったんだと問われているような。


とっくの昔に提出期限を過ぎていた宿題を、先生がずっと椅子に座り続けて待っていたような。



ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて謝って、ある種の罪悪感を抱えながらもそのふところに抱かれたいと心が願って止まない。

故郷ってそんなものかな。



お盆には、別府から帰省していた弟と母と三人で延岡へお墓参りに行きました。

私の両親は2人とも延岡出身ですが、もう祖父母もおばあちゃん一人を残して皆亡くなっていて、健在のおばあちゃんも数年前から住吉に引っ越してきたため延岡にはもう帰る家はありません。

子供のころは毎年お盆と正月は必ず延岡で過ごしていました。

今となってはもう延岡に行く用事はお墓参りぐらいしかないこともあり、折角だからと昔の父の実家、母の実家などを回って見ました。


母が幼少時代を過ごした延岡の土々呂(ととろ)町。


母の父、つまり祖父は軍人でした。

祖父は第一次世界大戦中、妻(祖母)を連れて当時大日本帝国の支配下にあった満州に移住しそこで始めのうちは裕福な暮らしを送っていたそうです。

ところが第二次世界大戦が勃発し日本が敗戦すると状況は180度一転し、祖父は捕虜として捕らえられロシアへ連行されてしまいます。

満州に残された祖母は、幼い娘と息子と共に満州へ残され、そこで裕福なロシア人の家で住み込みの家政婦としてしばらく働きます。

夫はロシアに連れて行かれたきり生きているかも分からないまま月日は流れ、祖母は「日本行きの最後のトラック」と聞かされたトラックに、他の日本人たちと一緒に乗り込むことができました。

まだ1歳にも満たなかった娘と4歳になった息子を抱え、数十日にも及ぶ陸路の移動に備えて祖母はリュックサックに持てるだけの食料を詰めてバスに乗ったそうです。

ところが、バスに乗った瞬間にそのリュックは他の日本人たちによってあっという間に奪われてしまったそうです。


そして日本へと旅立ったトラックの中で、幼い子供は二人とも栄養失調で死んでしまいます。

この幼い娘と息子は、私の母の兄と姉にあたる存在です。生きていれば、私の叔父と叔母にあたります。

勿論、母は戦後に生まれているのでこの兄と姉のことは知りません。

私が延岡で参ったお墓には、この二人の名前と享年が刻まれていました。

命日を見てみると、まだ赤ん坊だった姉のほうが、4歳だった兄よりも数週間長く生き延びていました。

一体、トラックの中で息絶えた二人を祖母はどう看取ったのでしょうか。

せめて、トラックを止めて土葬してやることは出来たのでしょうか。

どんな想いで二人の名前をお墓に入れたのでしょうか。

トラックで運ばれながら二人の正確な命日を、紙か何かに書き留めていたのでしょうか。

母も、祖母の生前それを詳しく聞いたことはないそうです。


二人の子供をなくし、夫も生きているのかさえ分からない状態で延岡へひとり帰りついた祖母。

数年経っても夫から便りはなく、誰もがもう死んだと思っていたそうです。

まだ若かった祖母には縁談もあり、結婚してもいいと思い始めていた頃、突然何の前触れもなしに祖父がロシアから奇跡的に帰還します。


捕虜として祖父と共にロシアへ連行された軍人たちは、奴隷として過酷な肉体労働をするうちにほとんどが命を落としたそうです。


突然帰ってきた祖父に、祖母は一体なんと声をかけたのでしょうか。

どんな感情で迎えたのでしょうか。


そして夫に、自分たちの幼い息子と娘の死を どんな言葉で伝えたのでしょうか。


・・・どうして、私はそんな話を一つも、祖母が生きている間に一度も尋ねなかったんだろう。




やがて、祖母と祖父の間には新たに三人の子供が生まれます。

その末っ子が私の母です。


もし、祖母が最後のトラックに乗ることができなかったら。

もし、トラックの道中で二人の子供と同様に命を落としていたら。

もし、祖父がロシアから戻って来ることができなかったら。

もし、祖父が戻ってくる前に他の人と結婚していたら。

もし、小さな息子と娘の命が助かっていたら。



きっと私はおろか、母もこの世に生まれてくることはありませんでした。




そんな大事な話を、私の命にまつわる話を、どうして私が高校を卒業するまで生きていた祖母に尋ねなかったんだろうと、初めて思いました。


父方の祖母と違ってこっちの祖母との思い出はあまり多くありません。

私たち孫を甘やかすことはなく、どちらかと言うと少し厳しかったような祖母の姿ばかり覚えています。

祖母が数年前に亡くなったとき、私はアメリカから帰っても来ませんでした。


祖母は、宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)にある若山牧水の生家で生まれたそうです。

そして祖母が亡くなったとき火葬された火葬センターは、その生家の上にある丘にありました。


おばあちゃんは、自分が生まれたところにかえったんだよ。


私と弟と一緒に自らの故郷、土々呂を訪れて母はそう言っていました。



おばあちゃん、ごめんね。


私に命がけで命をくれた貴女の最後を、私は追いかけようともしなかった。

貴女が内に秘めた想像を絶するような悲しみを知りたいとさえ思ったことはなかった。


貴女が満州からひとり延岡へ辿り着いたとき、貴女を生かしていたものはなんだったのですか?

子供が死んでいくのを見て、自分もがりがりに痩せて、それでも生きて自分の足で故郷へ帰ってきた

その目にはどんな希望があったのですか?


諦めないで生きてくれて、本当にありがとう。

命をくれてありがとう。

また必ず会いにいきます。



あき








20 : 30 : 57 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
Samurai Japan
2011 / 07 / 14 ( Thu )
なでしこJapanやってくれましたね!!






日本の女子サッカー事情には殆どと言っていいほど無知な私ですが(おそらく大半の人がそうであったように)、このパワーと賢さ、メンタルの強さには本当に圧巻です。

だからこそ、あの選手たちを「なでしこ」と呼ぶことに抵抗を覚えます。あのアグレッシブなプレーと敵を的確に打ち破っていく姿のどこがいわゆる「大和撫子」?

あれはサムライだと思う。男子の代表がサムライなら女子の代表だってサムライであるべき。だって、何も劣らないどころか結果で言えば男子代表を上回ってる。


この試合を見て純粋に感動して涙が出ました。ありきたりな表現だけど、アスリートが全力で闘う姿は誰をも感動させる力がある。


毎回、毎試合、毎シーズン、そしてどのスポーツでも、サイドラインで見ていてそう感じてきた。

そんなに思い入れのある選手たちでなくとも、馴染みのない競技でなくとも、アスリートの「必死」とその想いの強さというものに何度となく泣かされました。

そして今日この日本vsスウェーデンの準決勝を見ていてまた今一度感じたのは、

やっぱりスポーツの仕事が恋しいっていうこと、

一流のアスリートのそばで一緒に感動を味わえる私の職業の素晴らしさ、

そしてこんなキラキラした世界の一部に自分も属していたいっていう、強い強い憧れ。


人がこんなにも生きているって生身で感じられる仕事は、他にそうないって思える。


昔、ATCを志した時に漠然と抱いた「憧れ」は今も変わらず私の中にこうやって感動を与えてくれます。


だけど、その感動と一緒にいつもついてきたやるせない気持ちがあります。


どんなに近くで毎日練習に出向いて、どんなに近くで日々体の調子を整えてあげる手伝いをして、どんなに多くの時間を一緒に過ごして、どんなに頼られて、甘えてもらって、必要だと言ってもらえて、

どんなに強く自分がチームの一員としての一体感を感じていても、

所詮私はそのチームのメンバーではないっていうこと。

ゴールを決めたとき、試合終了の笛が鳴ったとき、シーズン最後の試合に惨敗したとき、

選手たちが抱き合って涙する輪の中に自分は入れないってこと。


やっぱり外で、裏で影で支えているだけに過ぎなくて、その中心には自分は入れず、ただただ後ろから眺めている立場だっていうこと。


当たり前なのかもしれないけどいつもそれがすごく寂しかった。

自分が憧れるキラキラしたものは、目の前にあるけど手を触れることはできない。


私が憧れていたのはアスレティックトレーナーではなく、自分がなれなかった一流のアスリートなんだなって思いました。

まだATCになってたった三年しかやってないし、学生時代の実習を含めても6年くらい。

半人前以下の身でそんな風に悟ったような気分になるのは間違ってるって言われるかもしれない。

だけど、またどっぷりとこの憧れに浸かって、満足な給与も休暇もないなかチームの為にくたくたになるまで働いて、これ以上ないってくらい思い入れを持ってしまって、

そしてまた「輪」に入れない空しさを突きつけられる覚悟が正直まだ持てません。

そんな願望自体が間違っているのに。仮にも昔アスリートだった自分にはそれが分かるべきなのに・・・


単なる「感動のおすそ分け」が欲しいだけでなく、しっかりとアスレティックトレーナーとしてのやり甲斐、生き甲斐を持っていなければこの世界でこれから続けていくべきじゃないと今は思っています。

まだまだ結論は出そうにないです。

00 : 48 : 13 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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