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やっと書けた。
2011 / 10 / 25 ( Tue )



最近めっちゃ気に入ってる曲です。切ないね!!いいよ!なける!
このPVは偽者なんだけど、これが本物だと思って見てたから今となっちゃ本家よりもこっちのほうが感情移入できるっていう。



久しぶりのエントリーが薄っぺらくてごめんなさい

東京(いや神奈川ですけど)にとっくの昔に戻ってきてます(8月末)。

宮崎ではたくさんの友達と飲んだり、飲んだり、そして飲んだくれたりしてとてもいい時間を持てました

結構最近は地元に戻ってきてる友達も増えていて、ごくごく自然にどちらからともなく誘ってくれてほんとにうれしかったです。


8年もの間日本を離れていて、その間くる日もくる日も同じ場所で同じ時間をただただ刻み続けた世界が宮崎にはあります。

そんなところへ足を踏み入れ、つかみどころない何かに包まれるのはともすれば億劫な作業でもあります。


自分自身も含め、世界は、人々は、変わってしまったんだと思うことのほうが

実は何も変わらないところへ回帰してそこにある人や風景の不変さを思い知らされるよりも

ずっと楽なのかもしれません。


私が遠い国で一日一日をやり過ごすのに精一杯だった年月の間にも

怖いくらいに何一変わらない世界が、一日も一時間も欠かさず同じ時を刻み続けた世界がそこにずっとあった。

その事実は、否応がなしに私に何かを突き付けます。

どこか、責められているような。

ずっと昔に返しそびれた本を、どこへやったんだと問われているような。


とっくの昔に提出期限を過ぎていた宿題を、先生がずっと椅子に座り続けて待っていたような。



ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて謝って、ある種の罪悪感を抱えながらもそのふところに抱かれたいと心が願って止まない。

故郷ってそんなものかな。



お盆には、別府から帰省していた弟と母と三人で延岡へお墓参りに行きました。

私の両親は2人とも延岡出身ですが、もう祖父母もおばあちゃん一人を残して皆亡くなっていて、健在のおばあちゃんも数年前から住吉に引っ越してきたため延岡にはもう帰る家はありません。

子供のころは毎年お盆と正月は必ず延岡で過ごしていました。

今となってはもう延岡に行く用事はお墓参りぐらいしかないこともあり、折角だからと昔の父の実家、母の実家などを回って見ました。


母が幼少時代を過ごした延岡の土々呂(ととろ)町。


母の父、つまり祖父は軍人でした。

祖父は第一次世界大戦中、妻(祖母)を連れて当時大日本帝国の支配下にあった満州に移住しそこで始めのうちは裕福な暮らしを送っていたそうです。

ところが第二次世界大戦が勃発し日本が敗戦すると状況は180度一転し、祖父は捕虜として捕らえられロシアへ連行されてしまいます。

満州に残された祖母は、幼い娘と息子と共に満州へ残され、そこで裕福なロシア人の家で住み込みの家政婦としてしばらく働きます。

夫はロシアに連れて行かれたきり生きているかも分からないまま月日は流れ、祖母は「日本行きの最後のトラック」と聞かされたトラックに、他の日本人たちと一緒に乗り込むことができました。

まだ1歳にも満たなかった娘と4歳になった息子を抱え、数十日にも及ぶ陸路の移動に備えて祖母はリュックサックに持てるだけの食料を詰めてバスに乗ったそうです。

ところが、バスに乗った瞬間にそのリュックは他の日本人たちによってあっという間に奪われてしまったそうです。


そして日本へと旅立ったトラックの中で、幼い子供は二人とも栄養失調で死んでしまいます。

この幼い娘と息子は、私の母の兄と姉にあたる存在です。生きていれば、私の叔父と叔母にあたります。

勿論、母は戦後に生まれているのでこの兄と姉のことは知りません。

私が延岡で参ったお墓には、この二人の名前と享年が刻まれていました。

命日を見てみると、まだ赤ん坊だった姉のほうが、4歳だった兄よりも数週間長く生き延びていました。

一体、トラックの中で息絶えた二人を祖母はどう看取ったのでしょうか。

せめて、トラックを止めて土葬してやることは出来たのでしょうか。

どんな想いで二人の名前をお墓に入れたのでしょうか。

トラックで運ばれながら二人の正確な命日を、紙か何かに書き留めていたのでしょうか。

母も、祖母の生前それを詳しく聞いたことはないそうです。


二人の子供をなくし、夫も生きているのかさえ分からない状態で延岡へひとり帰りついた祖母。

数年経っても夫から便りはなく、誰もがもう死んだと思っていたそうです。

まだ若かった祖母には縁談もあり、結婚してもいいと思い始めていた頃、突然何の前触れもなしに祖父がロシアから奇跡的に帰還します。


捕虜として祖父と共にロシアへ連行された軍人たちは、奴隷として過酷な肉体労働をするうちにほとんどが命を落としたそうです。


突然帰ってきた祖父に、祖母は一体なんと声をかけたのでしょうか。

どんな感情で迎えたのでしょうか。


そして夫に、自分たちの幼い息子と娘の死を どんな言葉で伝えたのでしょうか。


・・・どうして、私はそんな話を一つも、祖母が生きている間に一度も尋ねなかったんだろう。




やがて、祖母と祖父の間には新たに三人の子供が生まれます。

その末っ子が私の母です。


もし、祖母が最後のトラックに乗ることができなかったら。

もし、トラックの道中で二人の子供と同様に命を落としていたら。

もし、祖父がロシアから戻って来ることができなかったら。

もし、祖父が戻ってくる前に他の人と結婚していたら。

もし、小さな息子と娘の命が助かっていたら。



きっと私はおろか、母もこの世に生まれてくることはありませんでした。




そんな大事な話を、私の命にまつわる話を、どうして私が高校を卒業するまで生きていた祖母に尋ねなかったんだろうと、初めて思いました。


父方の祖母と違ってこっちの祖母との思い出はあまり多くありません。

私たち孫を甘やかすことはなく、どちらかと言うと少し厳しかったような祖母の姿ばかり覚えています。

祖母が数年前に亡くなったとき、私はアメリカから帰っても来ませんでした。


祖母は、宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)にある若山牧水の生家で生まれたそうです。

そして祖母が亡くなったとき火葬された火葬センターは、その生家の上にある丘にありました。


おばあちゃんは、自分が生まれたところにかえったんだよ。


私と弟と一緒に自らの故郷、土々呂を訪れて母はそう言っていました。



おばあちゃん、ごめんね。


私に命がけで命をくれた貴女の最後を、私は追いかけようともしなかった。

貴女が内に秘めた想像を絶するような悲しみを知りたいとさえ思ったことはなかった。


貴女が満州からひとり延岡へ辿り着いたとき、貴女を生かしていたものはなんだったのですか?

子供が死んでいくのを見て、自分もがりがりに痩せて、それでも生きて自分の足で故郷へ帰ってきた

その目にはどんな希望があったのですか?


諦めないで生きてくれて、本当にありがとう。

命をくれてありがとう。

また必ず会いにいきます。



あき








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