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さくら
2011 / 04 / 14 ( Thu )



出会った人の影響を上手に受けられる人がいる。私もそうなりたい。

言うことも言わないことも勇気じゃないかな。


ラスベガスに桜は似合わないようだけど、結構綺麗に咲くんだよ


Im just gonna see where the wind takes me


また違う夏になる。

Now it's time for my reality check.

私たちのモラトリアムが終わっていくね。





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ミチアンナイ
2011 / 03 / 04 ( Fri )




今週末金・土と働く予定だったサッカーのイベントをLast minutesで人に押し付けて(笑)、土日の二連休を書いて字のごとく死守しました!!

二日とも休みなんていったいいつ以来だろう・・・涙がでるわー

もー夜働きすぎて(めちゃめちゃ堅気な仕事です、ベガスなのに。嫌になるほど堅気)、朝4時とかに寝ようとしても眠れない。日が昇るころやっと眠りにつく感じ。


はー大人ってなんだろね。人にされたら嫌なことをなるべくしない、それでいいでしょ。


誰かのせいで人生が狂っただなんて、聞いていてそんなに格好悪い発言ない。
その都度、最終決定は自分でしてきたのだから。自分で軸を持ち直してまたやり直せばいい。

人のせいにしてたってその分だけあとから自分に「気づく」ときの辛さや苦しさが増えるだけだよ。

なら最初から自分でしてきたことだって認めたほうが楽だし、出直すスピードが出る


相手に傷つけられた、そうどっぷり思い込んで疑わない自分が少し前に居た。

でもほんとうに傷つけられたの?

相手は私を傷つけようなんてつもりはきっとどこにもなかった


相手に、自分をざっくり刺されて深い傷跡を残すぐらいの価値を、意味を与えていたのは自分。

どうでもいい相手だったら痛くも痒くもないようなこと。


だから傷を「付けられる」 こともまた、自分の決定だった


傷を回避できる道なんてきっといくらでもあったはず。



遠い過去近い過去、一昨日、昨日

その都度自分の起こしたアクション、自分の発した言葉、作った感情

ひとつひとつ飲み込めていっているようで、全然消化されていない自分自身の行動のConsequence(結果)


私は迷い虫。




小さい頃、夏休みに延岡のばあちゃんちの近所を歩くとよくいた、派手な色した変な虫、「ミチアンナイ」

「道を教えてくれるから道案内って言うんだよ」って、日傘を差したばあちゃんが背後から私に言ってた。

確かに自分の数歩手前をチロチロと歩くその虫に、いっそ着いて行けるところまで着いて行ったらどうかなあって思ってた。


小学校2年生のときお母さんがガンの手術で何ヶ月も入院して、私は弟と妹と一緒に三人で伯母の家に預けられてそこから学校にバスで通って、夏休みはずっとおばあちゃんちに預けられてた。

その数ヶ月間の記憶は、子供の頃の思い出の中でも一段と鮮明に覚えてる。そりゃ、日常と違ったんだから当然かもしれないけど。

あのとき8歳の私が一番しんどいと感じていたのは、両親と離れて過ごすことでもなく、遠いところからバスで学校に通うことでもなく、お母さんが重い病気だったことですらなく、

まだ小さい妹と弟が周りに手を掛けること、だだをこねたり泣いたりすることだった。

彼らのことが可愛いから心配だったのでは決してなく(そんなに大人ではない)、二人が周りの人に手を掛け、世話をされ、周りの人たちの日常を変え、気苦労をかけている

その様子を近くで全て見ていなければならなかったこと、その日々の現実をただ受動的に目撃してどうしようもないのに同じ場所で同じ時間を過ごさなければいけなかったこと、

何ひとつ、見ずに済ませたり無関心でいたりできなかったことがしんどかった。


大人になるってこういうことかな。自己と他者の間に、ポンと壁を置けるようになること

ブロックしたいものは簡単にブロックしてしまえるようになること

自分が生きていくこと、日々の生活を「こなして」いくのに邪魔になる感情を切り捨てるのがどんどん上手くなっていく

それが大人になるってこと



ミチアンナイはどこにも連れてってなんかくれない。無責任。

でも、8歳だった私はあのとき、遥か後ろで「もう歩きたくない」と泣いてだだをこねる妹と歩みの遅い弟の手をなんとかひいているばあちゃん その全部から逃げて、ミチアンナアイにすがって着いていきたいとぼんやり思った。


私は今も、迷い虫。


ただね、自分が道に迷うだけならいいけど 大事な人をもまでも迷わせちゃいけないんじゃないかって・・・・



今少し調べてみたら、ミチアンナイ(ミチシルベらしい)はお墓に案内するんだって。そして絶滅危惧。

なんかドキッとした。

着いていかなくて良かったんだ


着いていって、暗い墓地なんかにたどり着いて 帰り方も分からなくて

きっと死ぬほどおばあちゃんを、妹を、弟を恋しく思って途方に暮れることになったんだろう

病院で横たわってるお母さんのことを急に思い出して泣きたくなっただろう


わんわん泣く妹の声とおばあちゃんの困った顔と泣きたくなるくらいの暑さで、セミがうるさくて家はまだまだ遠くて

それでも我慢して、あの場から逃げなくてきっと良かったんだ



朝6時、寝る時間です。おやすみなさい。










08 : 10 : 28 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
A skill or two.
2011 / 01 / 28 ( Fri )



さて新年も順調に更新が滞っておりますあっこですー

前々回のエントリーに、すごく嬉しいコメントをくれた友人たちに心からありがとう。

素直に心に響く言葉に、ヒネクレ者の私はなんだか驚いてしまいました。

ほんとにありがとう。

明日からまたちょっとの間忙しくなりそう(ていうか普段から時間ないんだけども)なので朝4時ですが更新。

今までリビングでルームメイト・シーリンと熱く語り合っておりました。

恋バナから仕事、結婚、子供などなど真剣に。

最近私生活でもまたちょっと色々考えさせられる出来事も相次ぎ、調子を崩し気味でもありましたが

私はすぐに自分でいっぱいになって、周りに手を差し伸べてくれる人たちの存在に気づかなくなりがち。

気づこうとしないのか、気づいていても人に弱さを見せられずガードする本能が緩むときがないよ。

ほんとに自分で自分を疲れさせる面倒なひとだよ・・・


宮部みゆきの「地下街の雨」という短編集を今日読み終わりました。

中でも「ムクロバラ」という話が印象に残った。どれも面白かったので、お勧めです。



miyabe.jpg



考えるという行為はおそらく人間に与えられた特権。

そしてそれを文章として残すことができる、そんなすごい技術を持ち合わせた私たち人間。

書いたものは何年でも何百年でも残すことができ、その言葉が理解され続ける限り自分が死んだあとでもそれを読む人にメッセージを残すことができる。

それを単純にすごいことだと思う。

そんなすごい技術を持っているのだから、なるべく書いて残しておきたい。取るに足らないことでも、大事なことでも、大事な人へのメッセージも。

明日頭上に雷が落ちて命を落としてしまったら、ここに残す言葉が私の最後の言葉となる。

そんな大げさなことを考える割に、ブログの更新は亀ペース。


いやー人間ってすごいのにそれを生かせてないね。(例を人間規模に広げる必要なし)


会話をするっていう、これまたすごい技術。これもフルに使って楽しく使わなくては、もったいないよね。

ただただ言葉をやり取りする、それだけの行為に楽しさも、涙も、感動も、つらさも、やるせなさも、幸せさえも大事な人とならマックスに発生する。

そんな人にもうすぐ会えます。





06 : 16 : 37 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
今後の進路。真摯な気持ち。Happy 2011~
2011 / 01 / 15 ( Sat )



人はみんな程度の違いはあれど、自分を表現することで生きている実感や幸せと感じることが出来る生き物なんじゃないかなと思う。


どうしてアスリートと呼ばれる人たちに人々が惹かれ、憧れるかが私にはなんとなく分かる。

アスリートは、自分を一番ストレートに表現できるスポーツを最大限に使って、自分の体と精神の限界ぎりぎりを目いっぱい使って自分を表現してる。

すごく分かりやすい形で、一番自分になれる方法を誰の目にも分かる姿で自分を表現して生きている。


アスリートだけでなく歌手だったり画家だったり、もちろん普通の仕事をしている人も皆、様々な形で人は自分を表現しようとするのだけど、なんせアスリートは分かりやすい。

自分の心と体を、間に何も介せずにエナジーとして放出出来て、結果や記録、勝利といった分かりやすい直接なリワードとフィードバックを手に入れられる。


自分の内なるものとそれを表現する媒体との間に、色々なものや時間が割り込んでくればくるだけ表現したい「自分」の形は薄れ、削られ、そして見えなくなってしまう。幸せを感じられなくなって、自分が生きていることを実感しにくくなっていく。

そんな人のほうがきっと多いこの世界で、人々はアスリートの姿に表現しきれない自分の姿を重ねたり求めたり、そして憧れたり羨ましく思ったりするんだと思う。



アスリートは、他の誰かのためにプレイしてるんじゃない。

自分のため。



もちろん、チームのために頑張るだとか、自分が頑張る姿で間接的に人を励ましたり、大事な人たちに恩返しをしているとか そういうポジティブなものを「結果的に」 生んではいるだろうけれど、でも基本的には

アスリートが練習するのは、勝とうとするのは、戦うのは、痛みに耐えるのは、すべて自分のため。

自分が満足するため。自分で自分を誇りに思える喜びを貪欲に追い求めるからこそ、努力する。

彼らは誰かのためになんかプレーしてない。



愛する誰かを幸せにするためにプレーできる人なんてそういない。そんなのは付加価値でしかないはず。基本はすべて自分のため、自分が大事、自分が中心。



だからこそ怖いと思う。自分のためだけに戦い続けることは。

「他の誰かのために」 という名目をつけることで、きっと人は楽になる。

自分自身よりも他の誰かを優先すること、そして他の誰かの幸せを「自分の幸せだ」と置き換えることで

きっと人は楽になる。自分が生きている実感を自分で捕ってこなくてはならない辛さから解放される。



何が言いたいのか、だいぶ分からんくなってきたけども・・・・




私は今まで自分のためにこっちでやってきた。誰の為でもなく自分の為に、自分で自分を誇りに思える満足感を求めて。

アスリートたちの為にサイドラインに立ち続けること。一番近くで、彼らの気持ち、プレイしたい気持ち、戻りたい気持ちを誰よりも深いところで理解することができるAthletic Trainer。


そんな自分にずっと憧れてきた自分は、結局自分のためだった。私もまた、「Athletic trainer」という形で自分を表現する術を得ようとしてきた。

常に「アスリートの為」と言って、そんな自分を格好いいと思いたかったから。格好いいと思われたかったから。自分が満足したかった。



意地っ張りで見栄っ張りで外面にこだわってばかりの内弁慶。わたしは

ぶっちゃけトークして自分のことをあっけらかんと人に喋るけれど、本当に心を許せるひとにはどうしようもなく寄り掛かってしまう、すごく寂しがりやのかなりの泣き虫、弱音ばかりのマイナス思考。いったん外の世界が怖くなると、「明日仕事へいけない」とベッドでめそめそする始末。


私は私とひとつになりたい。 そう去年の日記に書いてた。

そばにいたい人のそばに行けばいい。寂しさを封じ込めることに労力を費やして誰も大切に出来ないのなら意味がないと。それこそ、自分のことしか考えてない。



今年の五月でGAとしての2年が終了、これでやっと3年をかけた大学院を卒業し同時に仕事も失う予定でした。

だけどここに来て、完全に「寝耳に水」だったのだけど 今まで外国人は一切雇わず、ビザや永住権のサポートもしないというのが上の方針だった今の会社が突然、来年以降も継続して私を正式な社員として雇いたいと言ってくれました。

この一年半のあいだ地味にやってきた高校の仕事を、ペーパーワーク等から会社のマネージャーが評価してくれたようです。

当然嬉しかったしアメリカに来て今年で8年、言わばATCとして自立して経験を積み、いずれはビザを出してくれるところで就職するのが最終目標だったといえばそう。

だけどね日本に帰ろうと思います。


自分の誇りと建て前だけが幸せなはずない。自分を表現する形を一から探せばいい。
表現したい自分と外の世界の間に、何かが挟まってたっていいよ。自分ひとり寂しいなら大好きな人の帰りを待てばいい。


「ありのままで生きていけたらいいよね」


宇多田ヒカルの「Goodbye Happiness」の後半で涙がぼろぼろ出てきてしまいました。

本当はこんな苦しさや長年の悩みを反映した曲だったんだなって。


大事にしたい。これからは自分だけじゃなくて、大事なひとたちを大事にしていきたい。



尊敬するアーティストである彼女の姿にまた、勝手に自分を重ねています。



相変わらず頭でっかちで自己中な私の、これが新年のご挨拶でした笑


May 2011 bring you happiness and a houseful of smiles to you and your family!


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19 : 36 : 16 | whats in myself | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
がんば
2010 / 12 / 28 ( Tue )




最近、がんばったなぁ~ってことありますか?

今考えてたんだけど、、、あまり思いつかず。おいおい自分、って思った。どーゆーこった。

歳と共に「頑張り」のIntensityは下がり、Durationは長くなってるのか?



いろいろ実感できなくなっていくものかな。長く同じ世界にいればいるほど。

何かを達成するのも、進化も、見えづらく、捉えづらくなっていく。

昔は分かりやすかったよね、テストで100点取るとか、クラスで何番目になるだとか、かけっこで何番になるとか、大きな大会に出るとか、賞をもらうとか。


「元」優等生は子供のときから具体的な数字や賞っていうものを取って周りを喜ばせ、アイデンティティを容易に確立できた過去の感覚をいつまでも捨てきれずにいるのでしょう。

私はそうです。


実際人生なんざそんな単純なもんじゃないし、明確に自分のしてきたことを数字や言葉で他人に評価して貰わないと道しるべを見つけられないなんて困っちゃうよね。


でも、久しぶりに会社の上の人から具体的に今までの高校の仕事を褒められて「ご褒美」なニュースをもらったの


そんなリワードをずっと欲しかったのかも知れない。素直に喜んで久しぶりに自分に「よくやったね」って言ってあげればいいのに、ヒネクレ者には寝耳に水でただ当惑。


めでたいことは素直にめでたいと、喜んで美味しいもの食べてお祝いだ! みたいな幸せに対する瞬発力って絶対に必要だよね。

短い人生、いいことばかりじゃないんだから。たとえば生きてるうちにあと100回こんなめでたい出来事が起こるとすれば、その100回全てをしっかり喜ばないと勿体無い。

そしてそれを一緒に喜んでくれる人を私は大切にしたい。
その意志は、26になった今の私が育てた。100点取ってりゃよかった小学生の私じゃなく。


ほんの少し力を貸してください。








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